斎藤宗次郎

雨にも負けずと実際のモデル > 雨にも負けずと実際のモデル 雨にも負けず 雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な身体を持ち 欲はなく決していか瞋 イカらず いつも静かに笑っている 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず 野原の松の林の蔭の 小さな萱葺きの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い 日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず そういうものに 私はなりたい 参考:(人づてにもらったのですが、出典・URLが不明です。 「花巻非戦論事件における内村鑑三先生の教訓」(クリスチャン・ホーム社)• 『斉藤宗次郎』は、1877年に岩手県花巻市でお寺の子供として生まれ、小学校の教師になり、 内村鑑三の著書と出会い、聖書を読むようになり、1900年にバプテスマ 洗礼 を受けて クリスチャンとなりました。

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教育の現場でも、或いはいろいろな会社、企業においても、そういう声がだんだん聞かれるようになった。 彼の死後、彼のカバンから発見された手帳に書かれていました。

斉藤 宗次郎

04月• ところがせっかくそういう鑑三の勧めがあって、自制をするわけですけれども、既に彼は岩手県の教育界から危険人物視されておりまして、退職に追い込まれてしまう。 しかし、そのように言われると、そのように思い返してみると、これは大変貴重な人間の生き方の遺産の一つではないか、という気もするんですね。

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今申しましたように、まず農学校の教師をし、やがて農業改革のための農業技術者としての、或いは科学者としての知識を使って農村改良をしようとした、そういう側面もある。

「デクノボー」という生き方―宮沢賢治と斎藤宗次郎の交流― >

或いは人間であることの苦しみから脱出するために、ふと口から飛び出した言葉かも知れない、そういうことですね。 いろんな話を聞かされたんですが、その中で忘れることのできないエピソードが一つあるんですね。

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人間の世界と動物の世界は対等なんだ、という感覚がここにはある。

「地上の星」 名も無きクリスチャンの生涯: 斉藤宗次郎と「雨ニモマケズ」

彼はその後、新聞配達をして生計をたてるようになった。 自分のところに弟子にしてくれ、といってくる青年たちはたくさんいるけれども、そのほとんどは自分を裏切って出ていった。

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『斉藤宗次郎』は、勤めていた小学校を辞め、一家を養うため新聞配達業を始めて、 重労働の仕事の中で肺結核を患ってしまいます。 その点で、敢えて斎藤宗次郎の生き方をデクノボー的な、もう一つの生き方と捉えることができるのではないかと思うんですね。

日本における徴兵忌避と兵役拒否

タイトルもさることながら、何とも不可思議な物語で、指導する教諭側からすると、「『やまなし』の授業をきちんとできたら教師として一人前」と評価されるのだとか。 そのことを書物にもしております。 葬儀の席上、讃美歌が歌われ、天国の希望のなか平安に彼女を見送りましたが、愛する子をこのようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の心情は、察するに余りあります。

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次回は、『斉藤宗次郎』を通してもう一人、イエス様を信じてクリスチャンとなられた女性のことを紹介しますね。

「デクノボー」という生き方

執筆から発表まで [ ] の嘱託を務めていた賢治が壁材のセールスに上京して再び病に倒れ、の実家に戻って闘病中だった秋に使用していた黒い手帳に鉛筆で記されていたものである。

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宮沢賢治の生まれ故郷である岩手県花巻市で初めてのクリスチャンであり、宮沢賢治とは、農学校を通じて交流がありました。 病身だった。

斉藤宗次郎と宮沢賢治の出会い: 摂理の花嫁(主の新婦になりたい!)

真偽は別にしても私達は、斉藤宗次郎の生涯から、聖書の「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。

そこから宮沢賢治の詩人としての魂が燃え上がっていく、ということが逆にあったと思いますけれども、賢治の孤独と淋しさと悲しさのようなものを、その寒行を通して、今あらためて思い起こしますね。